有人說講口語的時候完全想不到語法。口語差不能說語法無用,只是因為聽說能力練得太少。我國英語應試教育產生了許多讀寫能力強,聽說能力基本不行的學生。問題在于他們的語言聽力輸入太少,輸出就更難。作為外語學習者,語法是對這門語言的凝煉,好比大樓的鋼筋骨架。無數語言學家為我們總結了實用的語法,使用它能讓我們更好地學習語言,更深入地掌握語言。離開這個骨架,即使學了很多年外語,使用的時候都會覺得“不穩當”。
就算從小一直講漢語,我們在學校還是學了很多年的語文課,才能理解一些結構復雜,文句多樣的文章。對比外語學習,大環境下很難做到“浸泡”式的學習,并且也沒有那么多時間及能力在“浸泡”過程中自己總結語法,形成語感,更不用提理解那些結構復雜的句子。語言理解不到位,其中的邏輯理解就更是問題了。
經常有人報怨語法難學,搞不清楚。其實語法并不難,可能你沒有找到一個好的學習方式,可能你沒遇到一個能透徹講解語法的老師。在【蘇曼日語】團隊的日語課上,語法根本不是什么難事!【蘇曼日語】的老師都會化繁為簡,仔細剖析語法。同時注重聽說的訓練,讓你把語法用在嘴巴上!那時,你就會發現,語法不過如此~
トロントに実家がある上級レベルの生徒さん、親戚に不幸がありしばらく実家に帰らなければならなくなった。いつこちらに戻れるかはっきり分らず、とりあえず彼は「バンクーバーに戻るとき先生に電話します」と言い殘して実家に急いだ。そしてしばらくして彼から電話がかかってきた。當然トロントからの長距離電話だと思い、手短に「いつバンクーバーに戻ってきますか」と聞いたら「いまから學校に行ってもいいですか」である。びっくりしてしまった。何しろ「バンクーバーに戻るとき電話します」といったのだから・・・。この「戻るとき」と「戻ったとき」の違いは電話をかける場所が異なる。でも確かにこれは上級者でもなかなか 難しい。例えば「バンフに行くときセーターを買います」と「バンフに行ったときセーターを 買います」の違いは日本人はセーターを買う場所が違うことだとすぐ分るのに・・・ 「行く」と「行った」の違いでなぜそんなことが分るのか・・・生徒さんの疑問もよく分る。
家在多倫多的一名日語高階學生,因親戚遭逢不幸而不得不暫時返回老家。也不知道什么時候能回來,反正他就留下一句話“バンクーバーに戻るとき先生に電話します(回溫哥華的時候給老師打電話)”,然后就匆忙回家了。不久之后,他電話打來了。我理所當然的認為這是多倫多打過來的長途電話,于是簡短問道:“你什么時候回溫哥華?”答曰:“我現在可以去學校嗎?”聽后我吃了一驚,因為他說的是“バンクーバーに戻るとき電話します(回溫哥華之前會打電話)”……這個“戻るとき”和“戻ったとき”的區別因打電話的場所而異。不過這一區別確實對于高階學生也很難。比如“バンフに行くときセーターを買います(去班夫之前買件毛衣)”和“バンフに行ったときセーターを買います(去班夫之后買件毛衣)”兩句話的區別,日本人馬上就明白買毛衣的地方不同……“行く”和“行った”的區別為什么會有這種不同呢……對于學生的疑問我也表示理解。
ビジネス敬語講座の中でもこんなことを話題にしている。友達と待ち合わせなどする 場合、昔は「家を出るとき電話する」が當たり前であり、「家を出たとき電話する」はとても不自然な日本語である。家の前に公衆電話などがあれば別だが・・・、一般的には 不可能である。しかし攜帯電話の出現により・・・、「家を出たとき電話する」を可能に してしまったのである。「うーん」日本語もどんどん変わりつつある。日本語教師としては 大いに戸惑うところだが・・・、実際「家を出たとき電話する」のほうが時間的にはっきり するのでいいのかもしれない。
在商務敬語講座中也談到過這個話題。跟朋友約好碰面時,過去會理所當然的說“家を出るとき電話する(出門的時候打電話)”,如果說“家を出たとき電話する(出門后打電話)”就很不自然了。如果家門前就有公共電話那又另當別論……通常來說是不可能的。不過,由于手機的出現……“家を出たとき電話する”這句話則從不可能變成了可能。“嗯”日語也是在逐漸變化著的。這對于日語老師來說可是讓人困擾的事情……可事實上“家を出たとき電話する”的說法就時間上來說更加明確,可能會更好吧。
この攜帯電話はもちろん日本語だけではないだろうが言葉を変えちゃうほど影響力が ある。時代の流れと言えばそれまでだがちょっと寂しい感じもする。従來は電話の応対は自分の名前を名乗ることから始まるものと相場が決まっていた。しかし攜帯電話の第一聲 は「いまどこ・・・」である;镜膜摔イは嗍证lだか分ってしまうのだから當然なので あろう。普通、電話をかけた方が「いまどこ」の表現は考えられなかったし、更に「もしもしどちら様ですか」などの表現も攜帯電話には必要ないのである。
當然應該不僅限于日語,可手機卻有著足以改變語言的影響力。若說是時代的潮流也就僅止于此,多少有些寂寞。歷來接電話都是以自報家門開場。不過手機第一句卻 是問“你現在在哪兒……”。因為通常大家都知道是誰這么問是理所當然吧。而通常打座機就不會想“現在哪兒”,而用手機像是“もしもし どちら様ですか”這種說法就沒必要了。
この「もしもし」は「申し申し」が変化したもので、電話といえばやはり「もしもし」がなければ落ち著かない。でも聞き取りにくいときなどには今でも使うが、しかし高性能の攜帯テレビ電話などが一般化すればこの「もしもし」は全く必要なくなってしまうのでは・・・、「もしもし」が危ない。
またビジネスの電話応対などで「田中課長いらっしゃいますか」に対して「田中は外出中です」と「田中」と言わなければ、しかし奧さんなどから「田中おりますか」という電話がかかってきたら、この場合は「田中課長は・・・」と言わなければダメですよと説明している。しかしある生徒さんから「先生、もうそんな電話は會社にはかかってこないので必要ないと 思います」と言われてしまった。確かに奧さんは旦那の攜帯に電話すればいいのだから・・・。この「內と外」の切り替えは電話応対において従來はとても大事 なことだったのに・・・、教えることが減ってしまった。日本語教師とすれば攜帯電話を大いに怨みたい。
此外,就商務場景中接電話做出說明:對“田中課長いらっしゃいますか”得回答“田中は外出中です”,只能說“田中”,但是比如老婆打電話來問“田中おりますか”,這時就得說“田中課長は・・・”。可是,學生問道:“老師,現在公司都不會接到這種電話了,沒必要吧?”確實,老婆打給老公的手機就行了……接電話時“內與外”的切換向來都很重要……要教的地方減少了。日語老師該很怨恨手機吧。