一旦深入學習日語,就像游戲進入Hard模式,難度噌噌見漲!首先,可萬萬不能說日語漢字等于中文漢字。日語里許多漢字的字形與中文相同,意義卻與中文毫不相干。比如,“汽車”在日語里是“火車”的意思;還有“手紙”,并不是我們以為的廁紙,而是“信件”的意思。有些日語漢字,分開看,每個字都認識,可組合成的詞語卻讓人摸不著頭腦,比如“交番”“踏切”,你能想到它們是“派出所”“道口”的意思嗎?其次,日語的語法比較特別,與中文還有我們一直學的英語差別很大。舉個*簡單的例子,中英文里都是“主語+謂語+賓語”的句子結構,而日語則是“主語+賓語+謂語”的結構,“我吃飯”在日語中是“我飯吃”。
還有敬語,這也是日語學習的一大難點。日本是一個非常注重禮儀的國家,上下等級分明,長幼有序,親疏有別,因此敬語體系異常發達:在不同場合、對不同對象要用不同的敬語,給予者和接受者所使用的敬語不同,第一、第二、第三人稱使用的敬語也不同……這可難倒了不少同學。
日本語教育も中級に入るころから語彙などもどんどん増えてくる。そして學習者も言葉にいろいろ関心が出てきて、こんなことも気になってくる。例えば「丸」には「丸い」、「四角」には「四角い」とちゃんと形容詞があるのになぜ「三角」はないんですか・・である。こんなこと考えたこともなかったが確かに「三角い」とは言わない。「無いから無いの・・・」といいたいのだが、でも確かにちょっと不思議である。日語教育進入中級階段,詞匯會海量增加。這時學習者會更加關注詞語,會在意各類情況。比如,“丸”和“四角”都分別有形容詞“丸い”和“四角い”,那為什么“三角”就沒有呢……我倒是沒考慮過此類問題,但是確實不會說 “三角い”呢。很想就回一句“沒有就是沒有……”,不過確實有些不可思議。
先日もチューターをしている教師養成講座の卒業生から「重いと重たいはどう違いますか」と生徒に質問されてとても困っちゃいましたとのメールが屆いた。これもよくある質問で日本語教師にとっては悩めるもののひとつである。こんなことどうでもいいと思うのだが・・・でも學習者にすれば*初「重い」を學んだあと同じ形容詞の「重たい」が 出てくればその違いは何だか知りたくなるのも當然である。我々日本人はこんなことあまり考えたこともないのだが、でも何となく使い分けている。例えばこの 荷物とあの荷物とどちらが重いか単純に比較するようなときはあまり「重たい」は使わず、「どっちが重いですか」のほうが自然な感じが・・・、しかしその荷物を自分が持つとなると「どっちが重たいですか」になるのでは・・・、また「この荷物は重たいから持ちたくない」なども 「重たい」を使うような気がする。やはり日本人は何となく違いを意識して使い分けて いるのであろう。
前些天,一個現任助教的教師培訓講座畢業生發郵件來說被學生問到:“重い和重たい有什么區別?”,自己很是糾結。這是常有的提問,是讓日語老師頭痛的問題之一。我倒是覺得這類問題無足輕重啦……不過,從學生的角度來說,*開始要學“重い”,之后遇到同是形容詞的“重たい”,肯定是會想知道這兩個詞的區別。咱們日本人很少會考慮這種事情,不過潛意識中還是會區別使用。比如只是單純比較兩件行李哪件更重時不怎么用“重たい”,說“どっちが重いですか(哪個重?)”感覺更自然……可是如果是自己拿行李可能就要用“どっちが重たいですか(哪個沉?)”吧……此外諸如“この荷物は重たいから持ちたくない”等情況也會用“重たい”。日本人果然還是無意識中在區分使用啊。
ではその「違い」は・・・。この「重たい」はよく話し言葉として使われており、確かに 自分の感情を込めて表現しようとする場合に多く用いる。荷物の件もずしりと重みを 感じている気持ちを強調する場合は「重たい」のほうが自然である。するとやはり 「重たい」のほうが「重い」より重いのかも・・・。那么其“差異”是……“重たい”常用在口語當中,多用于表達確實融入了自己感情的情況。比如在強調行李很重時“重たい”更自然。這樣看來“重たい”比“重い”更重吧……
そしてこの「重たい」などの「~たい」が付く形容詞を調べてみると「眠たい、冷たい、 煙たい、じれったい、やぼったい、」等いくつかあるが全體的に何となくあまりよくないイメージを表す言葉が多い。確かに「この料理は胃に重たいね」のほうがぴったりする。やはりこの「重たい」は自分の嫌な気持ちを表す表現なのであろう。でもなぜ 「口が重い」や「腰が重い」のような慣用句には「重い」が使われているのか・・・。
此外,來看看諸如“重たい”等帶“~たい”的形容詞,“眠たい、冷たい、 煙たい、じれったい、やぼったい”等有很多,整體來看總感覺多是表示感覺不怎么好的詞。確實,說“この料理は胃に重たいね”更符合習慣吧。果然“重たい”是表示自己厭惡感情的詞吧。那么,比如“口が重い”和“腰が重い”等慣用說法時為什么又用“重い”呢…
それはさておき、「重い・重たい」と同じように形容詞がペアになっている「眠い・眠たい」や「煙い・煙たい」などもやはり同じような感覚で日本人は使っているのでは・・・。間違いなく「煙たい」は「煙い」より嫌悪感がある。「眠い」と「眠たい」はそんな差はあまり感じないが、「會議中に眠たくなってしまった」は眠い行為をマイナスなことと言いたいのであろう。
這個先不提,來看看跟“重い・ 重たい”同類的形容詞組“眠い・眠たい”和“煙い・煙たい”等,日本人果然還是帶著類似的感覺在使用吧……毫無疑問的“煙たい”比“煙い”更有種厭惡感。“眠い”和“眠たい”的差別雖然沒有那么明顯,但是比如“會議中に眠たくなってしまった”這句中睡覺的行為是作為消極因素在說。
ここでもっと恐い質問が待っている。「重い」に「重たい」があるのに、「軽い」の「軽たい」 はダメですかである。困ってしまった。でも確かになぜ・・・。更にもしこんな質問されたらどうしようと悩んでしまった。それは「冷たい」があるのにどうして「冷い」はないんですかである。でもよく考えるとこれも確かに不思議である。 たかが「た」があるかないかなのに・・・。これから生徒と一緒に飲みに行くのが恐ろしい。「軽たい」や「冷い」が気になって気楽に「軽く冷たいビールでも飲みに行こうか」など 言えなくなってしまいそう。日本語教師はとても因果な商売である。
然后還有個更讓人恐懼問題。那就是——“重い”相對應的有“重たい”,那么為什么“軽い”就沒有對應的“軽たい”呢?真讓人頭痛。不過確實這是為什么呢……如果再被問到下面這個問題會更頭痛吧:為什么有“冷たい”卻沒有“冷い”呢?不過,仔細想想這也確實不可思議。明明就一個不起眼的“た”而已……今后我會怕跟學生一起去喝酒了。感覺會在意“軽たい”和“冷い”而說出“軽く冷たいビールでも飲みに行こうか(去喝點冰啤酒吧)”這種話來。當日語老師還真是前世造的孽哦。
日本語教育においてこの「~ぽい」はなかなか厄介である。特に*近若者を中心にこの「~ぽい」の使用頻度が高まっており、日本語學習者もよく耳にするので思いもかけない質問がくる。日語教育中,“~ぽい”的用法很復雜。特別是*近在年輕人中,“~ぽい”的使用頻率很高,日語學習者也經常聽到,于是提出了一個意想不到的問題。
この「~ぽい」は「多い」が訛ったものだと昔日本語教師養成講座で習った。例えば「水多い」が「水っぽい」である。いろいろな言葉にくっついてその性質や特徴を多く有していることであり、「骨っぽい」「埃っぽい」、更には「忘れっぽい」や「安っぽい」などで、 何となくマイナスイメージの言葉が多い。しかし確かに「大人っぽい」や「子供っぽい」もマイナス的だが、「男っぽい」や「女っぽい」などはプラスの評価も感じられ、なかなか一筋縄ではいかない。
以前在日語教師培訓講座上學到,“~ぽい”是“多い”的方言。例如“水多い”會說成“水っぽい”。跟許多詞語連用,其性質和特征也有很多,像“骨っぽい”(刺多的)“埃っぽい”(滿是塵埃的),或者“忘れっぽい”(健忘的)“安っぽい”(不值錢的)等,不知為何負面印象的詞語很多。確實“大人っぽい”(老成的)、“子供っぽい”(幼稚的)也是負面的,而“男っぽい”、“女っぽい”等也有正面評價的感覺,很難用一種解釋涵蓋全部的含義。
ここで更に難しいのが「らしい」との比較である。こんな質問をよく受ける。「春らしい天気」と「春っぽい天気」はどう違いますか……である。昔は「春っぽい天気」などの表現はほとんど聞いたことはなかったので、生徒にはあまり教えたくないのだが……。でも*近は若者同士の會話ではこんな言い方がよく使われているので、どちらもほとんど同じ意味ですよと教えている。するとこんな質問が……。「このラーメンは水っぽい」と「このラーメンは水らしい」は同じですか……。うーん、困ってしまった。確かに「子供」や「春」などは 「~らしい」も「~ぽい」も両方使えるのに、「水」や「骨」などは「~ぽい」しか使えない。なぜと言われてもなかなか説明しにくい。決まり文句として覚えてください……である。